公明党と直接民主主義

あたしはずっと、いまのこの政治の行き詰まりは、いままでの間接民主主義、選挙によって議員を選んで、その議員が議会で議論していろんなことを決める、っていうのがもう完全に行き詰まってると思うわけ。

それに対する欧州での取り組みが「クジ引き民主主義」。裁判の裁判員みたいに、有権者から完全にランダムで政策を決める会議に参加する人を決めるという…。その取り組みは、いまの選挙という仕組みが、本当に有権者の正当な代表を選べてないという反省に基づくモノで。

で、あたしは考えた。クジ引き民主主義が日本で採用、導入されるまでには、たぶんあと30年か50年はかかる。オレはそんなに長生きはできない。ってことで、あたしの支持政党である公明党で、クジ引き民主主義みたいな取り組みができないかなって。

公明党の党員、そして公明新聞を定期購読している人は、様々な政策を検討する会議(オンラインでいい。基本は文字ベースで)に参加できる。基本は実名で。

やることは、徹底した議論。肩書きとか立場とか関係なく、言葉の重み、説得力、他を納得させる力によって制作の流れを決めていく。簡単に多数決にはしない。ひたすら議論する。大切なのは自分と意見が違う人へのリスペクト。なぜこの人はこういう意見を持つに至ったんだろう。その背景は、どのあたりにあるのか。なぜ自分とはこんなに意見が対立するのか。お互いにたっぷり相手の立場に立てば、きっと必ず議論は収束、収斂する。

それをすべてのテーマについて、会議室を設けて、徹底的に議論する。国会議員だろうが村会議員だろうが、一読者であろうが、対等の立場で。国会議員が国政調査権その他で知り得た情報は、独り占めせずすべて提供し、有意義な議論の助けとする。

たとえば、連立与党の相手との駆け引き材料として不承不承、賛成しなければならない法案があったとしたら、それも包み隠さずに報告する。国会議員以外の参加者は、それを踏まえつつ、本当にその議案に賛成すべきかどうかを是々非々で議論する。

この議論の内容はすべて完全に世の中に公開する。最終的には国会議員が決定権を持つことになるんだろうけど、それまで積み上げてきた議論の結果が間違いなく反映されているか、有権者はしっかり確認することができる。

まあ、このくらいのことだって10年やそこらじゃ実現しないと思うけどな。でも法律じゃないから、一政党の中の話なので、その気になれば明日にでもできる。

徹底した議論
オープンな前提
参加者は肩書きや立場じゃなく言葉の力によって尊敬される
単なる多数決は無意味

このあたりの原理原則って、SNSとかの普及によってだいぶ浸透してきたと思うけど、僕の知ってる巨大組織では、まだ昭和の香りのする運営がなされていて。笑

あえて書くとすると、晩年の池田先生がおっしゃったという、「まだ創価学会は上意下達なのか」という言葉にすべてが込められていると思う。
われわれ弟子は、先生が目指した理想の創価学会の完成に向けて、それぞれが力に応じて、力の限りに、努力しなきゃならんのだよ。

きょうの聖教新聞に、従藍而青についてわかりやすく解説されてたけど、もっともっと青く染めなきゃ。先生が理想とされる学会を目指して。

そう思ってる人が僕の周りにほとんどいないのが、ちょっと驚きなんだけど。

まあいいや。
もう後戻りはしない。

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