「降りよう」と。

釈迦の弟子に維摩詰っていう人物がいて、在家なのにそのへんの僧侶なんかより仏法にめちゃめちゃ詳しくて一目置かれてたというんだけど、あたしはこの維摩詰に憧れる。

それはそれとして、あたしは母親が熱心な創価学会員で、その母親の影響で物心つかない頃から仏法に馴染んで。

子どもの頃はうちに積んであった仏法説話なんかの絵本をひたすら読んで過ごした。母に連れられて創価学会の会合にも参加してた。いわゆる皮膚から入るってヤツかな。

そうして、この仏法は強制でやるんじゃなく、人々の自主性を重んじるということを知った。

他の宗教のように戒律らしい戒律がないことも好ましいと思った。

要するに信仰というのは、自分の外にあるんじゃなく、どこまでいっても人間の内面にあるモノだと。それが自然なカタチで表出するモノだと。

何か押しつけられるのが大嫌いな僕の考えともぴったり合って、誰かに強いられるわけでもなく自分からこの仏法を学び、理解を深めていった。どこまでも納得と対話を重んじる師匠、池田先生の姿にも魅了されていった。

気がつくと、第一線の幹部を経験するようになっていた。人を引っ張っていくような柄ではないのだが、役職は断ってはいけないと教えられていたので、素直に話がきた役職は受けた。40代の終わりだったか、それなりに責任重大な「支部長」という役職をいただくことになった。

もちろん、人に信仰を伝える立場だから、創価学会が推進する公明支援についても、会合などで話さなければいけない。幹部である一方、ひとりの信仰者でもあるわけで、若い頃から政治に関心が強く、どちらかというと政治家を批判的に見るクセがあったので、公明党に対しても、それは同様で。

なんか変じゃね?と思うことがあったら、そのつど、幹部やすぐそばの同志に疑問を発することも少なくなく。

自公連立が発足し、公明党が権力の側に取り込まれて行くにつれ、メンバーに公明支援を訴える立場と、一個の信仰者としての立場が徐々に乖離し、分裂寸前まで行ったとき、ようやく決意を固めた

降りよう、と。

いまはnetでいくらでもその気になれば詳しい情報にアクセスできる。もちろん正邪を見分ける眼力は絶対に必要だが。ネットで見知った情報を信頼できる幹部に当ててみるとどうもデマではないらしく。待てよ、これらの情報が本当だとしたら創価学会の公明支援って欺瞞のカタマリじゃね?

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