何か月か遅れて愛読している聖教新聞だが、気に入った記事があると台所のテーブルに敷き、メシを食いながら何度も何度も読み返す習慣が僕にはある。
この記事も、まさにそうで。
聖教新聞社の著作権を侵害しないようにモザイクをかけたのだが、スラップ訴訟、起こされないかなぁ。笑
それはそれとして。笑
すみません、紙面の右下あたりが汚れているのは、ごはんとか白だしの鍋とかカレーとか刺身の醤油とかミカンの汁とかいっぱいこぼしたからで。それだけ長い間、真剣に大聖人の御生涯を学んでいた証左に他ならないわけで。
ちなみに聖教新聞のサイトでちょっと記事を探してみたけど、見当たらなかった。代わりに、同じ内容の動画をYoutubeで見つけたので、リンクを張っておきます。
エラいなオレ、アホな創価学会幹部に活動停止を言い渡されてるのに。笑
それはそれとして。
ご存じの通り、日蓮大聖人は、鎌倉幕府の最高権力者、北条時頼に「立正安国論」を提出しており。詳しい内容はググっていただければと思うが、間違った宗教を信じていると、法華経に説かれているように、自界叛逆難と他国侵逼難が起こると予言されており。
何年かして、予言が的中するのだね。
まあ、創価学会員を何十年かやったことがある大人であれば、このあたりのストーリーは耳にタコができるくらい何度も聞いて知ってるわけで。僕がこの記事を読んで、改めて感動したのは、そのあと。大聖人いわく、
「私が恐れていたことが、現実になってしまった。人々が争いに巻き込まれ、これ以上、苦しむようなことがあってはならない。あらためて、正しい教えを弘めていくべきである」
俺の予言が的中したぞ! どうだ、すごいだろ!!!じゃないんだよな。当たり前だけど。ヘタな教祖とかだと大喜びで、また金儲けのネタにするところだけど、大聖人はまったく違う。どこまでも根本は民衆の幸福にある。
そして、そのあと大聖人は、大急ぎで幕府の偉い人たちや鎌倉の大きな寺の坊主たちに話し合いを求めたのだが、彼らはみな、それを無視した。それどころか大聖人に対し、さらに強い迫害を加えていったという。
ヤバくね? 要するに、幕府の要人たちも、鎌倉のデカい寺の坊主どもも、民衆の幸福よりも自分たちの権益を守ることに汲々としていたというわけだ。
まあ、時代が変わっても、よく見かける構図だよね。
で、極楽寺良観っていうラスボスが登場する。こいつは鎌倉の人たちに自分のことを「生き仏」みたいに思わせておきながら、裏では幕府と結託して、さんざん悪事を働いていたという。聞いたところによると、あちこちに関所を設けて、通行人からさんざんボッたくっていたとか。
なので、良観にとって本当の正しい教えを説く日蓮大聖人の存在は、邪魔で邪魔で仕方がなかったわけ。
で、有名な祈雨の勝負に向かうわけだね。
もちろん良観の全面大敗北。日蓮大聖人が良観に対して放った言葉が、あまりにも本質を突いていて言葉を失う。
「一丈のほりをこへぬもの十丈二十丈のほりをこうべきか」
つまり、「あなたは雨を降らすなどという簡単なこともできないのに、どうして大事な成仏が、かなうというのか」
良観は、恥をかかされたと怒り狂い、幕府の要人たちに、大聖人に対する讒言をこれでもかと吹き込んだ。
良観の話を信じた幕府の要人たちは、大聖人を捕らえようと動き出したところで今回のストーリーは終わる。
ここまで読んで、疑問に思うこと。鎌倉の人たちもそうだし、幕府の要人たちもそうだけど、どうして良観のいうことを鵜呑みにする? なんか変だな、とか思わないのかな。たぶん、それまでの良観の宣伝?があまりにも巧みだったんだろうし、日蓮大聖人というのは、彼らにとってどこの馬の骨ともネコの骨ともわからない、知らない僧侶だから、簡単に信じられなかったんだろうけど。
祈雨の勝負だって、一部始終をずっと見守っていれば、良観の一派が全面敗北で、大聖人側が大勝利というのは、見ていればわかるはず。でも、今の時代でもそうだけど、事実を時間をかけてじっと見守って確認する人というのは、驚くほど少ないわけで。ほとんどの人は、誰か信じるに足りそうな人の言うことをだいたい鵜呑みにする。自分の目や五感をフル動員して事実はどうかを確かめるのではなく、たぶん、この人が言うことだから、きっと正しいのだろう、と思い込む。それ以上、考えることをしない。考えることをやめてしまう。だから、平気で嘘をつく人たちの天下がいつまでも続いている、この人間社会。
鎌倉時代はそうだったかもしれないけど、いまは800年近くも時代が進んだ21世紀ですよ。いいかげん、みんな、誰かが言ったことじゃなく、なるべく自分の目や脳みそや五感を総動員して、なにが本当か、なにが真実か、確かめるクセをつけようよ。
俺が言ってるのは、そんなに難しいことじゃないぜ。
事実をもって、語ろう。それに尽きる。
あ、ひとつ追加するとすると、創価学会への反対運動をしてる方々のなかには、聖教新聞の購読をやめよう、と訴えてる人たちがいるけど、それははっきり、間違いです。
聖教新聞の記者にもいろんな人がいると思うけど、少なからぬ聖教新聞の記者の方々は、いまの原田会長を中心とした創価学会執行部の行き方を苦々しく思っていて、なんとか三代会長が命がけで示してくださった正しい広宣流布の大道に戻れるように、祈るような気持ちで聖教新聞の記事を作成、執筆、編集、発行してる方々がたくさんいることを僕は知ってる。
たとえていえば、NHKみたいなもんだ。NHKの上層部が腐れきったアベ自民に完全制圧されていたとしても、NHKの現場の記者たちはパルチザンよろしく、なんとか睨まれないようにしながら、本当の民衆の幸福のための番組をひとつでも多く放映しようと、本当に文字通り命がけで番組の制作に携わってる。そんなの見てればわかるじゃん。だから腐れきったNHKの上層部は徹底批判しつつ、現場で必死にいい番組を作ろうとしてる方々は全面的に連帯し、諸手を挙げて絶賛する。そのくらいの解像度は持ち合わせてますよ。
いまの創価学会に対して「原田学会」などと蔑称を投げつける人もいるけど、これも完全に間違い。僕は前にもどっかに書いたけど、ちょっとだけ分厚い雲にしばらくの間、覆われてるだけだと思っている。時間がたてば、また以前の通り、どこまでも澄んだ青空が目にできると思うけど、少しでもこの曇天をどうにかしたいと思うから、ない力を振り絞って、この分厚い雲を吹き飛ばそうとしてるのであり。
何度も同じことを書くけど、いまのやや病んだ創価学会に対して「原田学会」と蔑称を投げつけることは、完全に間違い。以前のように真面目に信心活動に従事している女性部の方々を中心に、何百万の創価学会員の方々に対して、こんな失礼なことはない。いますぐやめるべき。
日蓮正宗を「日顕宗」と呼ぶのとは、まったく意味が違う。
わかるかな。わかんなければ仕方ないけど。