入園式の撮影で革靴やランドセルについて考える。

今日は江戸川区の海のほうにある保育園の入園式の撮影で。

クルマをコインパーキングに止めなきゃいけなかったので、少し早めに行って、ぐるぐるあたりを見渡してた。去年に止めたセブンイレブンの横のコインパーキングはすでに満車。なので仕方なく、すぐとなりのスーパーに併設されたコインパーキングに止めようと思った。

だけど、都会のスーパーに併設されたコインパーキングによくあることだが、料金が青天井なワケで。基本的にはスーパーの利用者に使ってもらいたいから、一日中止められても困るというね。20分で330円だったかな。

園には9時15分までに行くように言われてたので、決死の覚悟で8時35分頃に駐車場にクルマを止めた。11時前には撮影は終わるはずだから、たぶん2,000円もかからずに済むんじゃないかと。あとで知ったのだが、スーパーで買い物をすると1時間の無料チケットがもらえる。これはいいことを知った。撮影に集中できるってもんだ。

今朝もtwitterでつぶやいてたんだけど、苦手なスーツを着て、自宅から、クルマの中では、あたしは裸足にサンダルを履いてる。現場に近くなり、クルマを降りる段になって、いやいや靴下を履き、そして靴を履くのだ。数年前までは式典の撮影では革靴を履いてた。でもあるとき思い立って、ふだん履いてるスニーカーを履くようにした。ニューヨーカーみたいにね。僕は卒園児、入園児の父親ではないので、絶対に革靴を履かなきゃダメ、ということはないだろうと。

それから、卒業式、入学式の撮影が、ずいぶんラクになった。気持ち的にもそうだし、足の痛みも激減。

撮影現場の保育園までは歩いて5分の世界。緑の豊かな住宅地を歩きながら、すれ違う人たちを眺めてた。そこでふと、こんなことを思った。

日本の人たちって、ルールに従うのが好きだよね。

マスク。国が3/13を境に、マスクはしなくてもいいよ、といっても、3年間の習慣はなかなか変わらないもんで。ひとり残らずマスクしてる。だいたい3密の状況でもないのに、なんでまわりに人が密集してるわけでもないのに、広い歩道を歩いたり、自転車に乗って行ったりしてるのに、みなさん後生大事にマスクしてるんだ? オレには理解不能なんだけど。まあ、それはいい。

でも、短い園までの道のりを、ゴロゴロのカメラバッグを転がしながら、ハスキーの三脚を担ぎながら、考えてた。革靴と似たアイテムに、ランドセルって、あるじゃない?

ちょっと飛躍するかもしれないけど、

そうだ、今日、家を出て、クルマのエンジンをかけて、ディスプレイにSat.って表示されてるのを見て、死ぬほど驚いた。うっわ、今日は土曜日なのか! 金曜日かと思ってたよ〜。

僕は知らなかったのだが、巷では、統一地方選の前半戦のまっただ中で。僕が2年前の夏まで活動していた某宗教団体では、この週末は、たぶん、Z日和なワケで。Zというのは不在者投票、いまは主に期日前投票。不在者の頭文字はFで、フレンドのFとカブるので、不在者のザからZにしたんだろうね、たぶん。

まあ、そんなことはどうでもいいのだが、某宗教団体では、この土日は、Z日和なワケで。つまり、投票日当日には何が起こるかわからないから、行ける人は早めに投票を済ませておきましょうという。ものすごくぶっちゃけていうと、お年寄りとかは、投票日当日を待たずに、寿命を終えてしまうかもしれない、というね。なので、われわれクルマを持ってる活動家が、いちばん近い期日前投票所と地元との間を何往復もするというね。

いまとなっては、いろいろと言いたいことも、ないわけではないけど、でも基本的には、ものすごく熱心に、一般市民の政治参加を推し進めようとしているわけだし、棄権防止の活動なわけだし、草の根の民主主義を推進してるという言い方もできる。なので、あたしはもうやらないけど、基本的には敬意を表したいとは思う。けっして、バカにしたりdisったり通報したりするつもりはない。さらさらない。

だけど、あえて付け加えるとすると、公明党を全力で応援しよう!というのと同じくらいの熱量で、公明党は、こういう政策を推進してる!という学びを、しっかりやっていただきたいと切に望む。

いや、政治学習と称して、それなりに学んでいるとは思う。だけど、基本的には党や組織の言ってることを鵜呑みにしてるだけだし、そこにがっつり異論を挟むということは、基本的には想定されていない。もし万が一、そういうことがあったとしたら、途端に“面倒くさい人リスト”直行だ。

ま、あたしみたいにね。笑

創価学会の公明党支援って、小学生にランドセルを背負わせるのと、似てる気がする。

基本的には、これをやっておけばOK、問題ない。みんなもそうだし。

だけど、永遠にそれでいいの、という問いは、遠くから静かに聞こえてくる。

革靴もそうだけど、ある歴史上の一時点においては、ランドセルもしくは革靴は、最強のアイテムだったのでしょう。丈夫だし、長持ちするし、

だけど、それが永遠に唯一の選択肢か、と言われたら、考えてしまう。

だって時代は前に進んでるから。ひたすら、前に進んでるから。

どんどん優れた材質の優れた製品が開発され、しかも安く提供されたりして。

ランドセルを選んでいれば間違いない!と思うのは、その人の自由だけど、そのことと、ランドセルじゃなきゃダメ!というのは、似てるようだけども、まったく違う。ぜんぜん違う。後者は単なる強制。

僕はどういうわけだか、子どもの頃から、とにかく強制されるのが死ぬほど嫌いだった。学校では制服とか髪型とか、どうでもいいと思ってたから、とくに軋轢は生まなかったんだけど、会社に入ってからかなぁ、デビューしたのは。

某新聞社に勤めてて、福岡市早良区に住んでた頃、いまみたいに統一地方選の戦いがあって。

僕は遊説隊をやろうと思った。こっそり黙ってやればバレなかったんだろうけど、バカ正直な僕は、それを会社の上司に相談した。

そしたら、新聞社の社員が特定の政党の遊説隊をやるのは、さすがにまずいだろう、と言われ、反対された。ま、それで実現しなかったんだけどさ。

なんの話だっけ。忘れた。

公明党を応援するかどうかなんて、ひとつのカタチに過ぎないんだよ。ぶっちゃけ、どっちでもいいんだよ。

ここだけの話、功徳っていうのは、細部に宿るんだよ。

同じようにF闘争をしてても、功徳をいっぱい積める人がいたと思えば、まったく功徳につながらない人もいる。それは選挙をどのように広宣流布の戦いに利用してるか、ってことだと思われ。

広宣流布っていうのは世界平和のことだし、法華経ひいては創価の生命哲学を世界中に弘めることだ。

法華経っていうのはね、簡単に言うと、生きとし生けるもの(=一切衆生)に平等に仏性が備わっているということを認めること。信じること。確信すること。

僕の師匠の池田先生は、こんなことをおっしゃってる。創価学会員であっても、外道(仏法以外の劣った思想・宗教)の人もいれば、仏法の信奉者ではなくても、生き方、行動が仏法、法華経、創価の生命哲学にものすごく肉薄してる人もいる、と。

それでいい、と思うんだよね。

それでいいと思う、というか、そういうことなわけだから、自分らしく自分の信じた道を進めば、いいんじゃね?と心の底から思うわけでございます。

最近、フリーカメラマンとしてのブログ「蛍雑想」、政治ネタ中心の「船橋政治新聞」、宗教ネタ中心だけど休眠中の「船橋創価新聞」、この3つがゴッチャになって、どこに書くか迷うことが多い。

まあ、けど、仕方ないよね。分類なんて便宜的なもんだし。

これからも、死ぬまでガンガン行くよ。

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