映画『NO 選挙, NO LIFE』トークイベントから民主主義の究極の擁護者たる日蓮大聖人を憶う

ポレポレ東中野で映画『NO 選挙, NO LIFE』とそのあとのトークイベントを拝聴してきた。

前田監督、畠山理仁さんと原一男監督@kazu19451 とのトークイベントは期待以上の内容で。やっぱり、そうだよなあ、という思い。

さしずめ、映画学校か大学の映画学科のゼミの様相で。

呼ばれた映画のトークイベントであそこまで言い切ってしまうのはドキュメンタリー映画界のレジェンド、原監督だからこそ。遺言とも、愛のムチとも思えた。

少し話にも出てたけど、沖縄の居酒屋あたりで、正面から畠山さんを撮った映像があって、そこでいろいろ語られてたら、少し違ってたと思う。基本、クルマの助手席からの横顔ばっかりだもんな。

映画って怖いよな。監督の迷いとか逡巡が、すべて残ってしまうもんな。

まあ、だから表現っておもしろいわけだけど。

ますますあたしも映画が撮りたくなってきたよ。そこそこいいビデオカメラでも買うかな。笑

しかし、映画ってやっぱり、何かを暴かないと、映画である意味、映画を撮る意味ってないんだよな。ドキュメンタリー映画ってホントに難しいよな。

※ここまで昨日、ここからは今朝書きました。

昨日の映画『NO 選挙, NO LIFE』とそのあとのトークイベントのことをずっと考えている。ドキュメンタリー映画界のレジェンド原一男監督をお呼びしたトークイベントでは図らずも(?)「民主主義」という言葉がキーワードになったけど、僕が信奉する日蓮大聖人は、よく考えてみれば(すみません、よく考えなくても、ですね)、民主主義の究極の擁護者で。

とても平たく言うと、ずっと虐げられ続けている民衆の底力をどこまでも信じ抜かれ、その底力の「出し方」を発案され、懇切丁寧に説明され、その尊い生涯を終えられた方で。

思うに、「正義」って自分の立場によって態度を変えないことかな、って思う。

米国や英国、ドイツの政府が頑なにイスラエル寄りの態度を改めず、イスラエルのガザでの虐殺をいっこうに批判しないのをみて世界中の民衆の怒りは頂点に達しているが、昨日はアウシュビッツの博物館の公式アカが明確にイスラエル擁護の声明を出したことで絶望にも似た悲鳴があちこちから聞こえてくる。僕もしばらくフォローしていたアウシュビッツの公式アカのフォローをしばらく前にやめた。

つまり、こいつらは敵だからいくら殺してもいい、とか、この人たちは味方だから命を救わなきゃ、みたいなのってハッキリいって何百年も前の古い考え方で。戸田先生が提唱された「地球民族主義」に基づくならば、それがどこの国の子どもであっても、可能性のカタマリの子どもの命は等しく尊く、まともな大人であれば自分の命を賭して子どもたちの命、安全を全力で守らなければならない。

翻ってみるならば、日蓮大聖人の仏法を信奉しているはずの創価学会が支持母体となっている公明党の議員たちが、命がけで民主主義を守っているかといえば、甚だ心許ない。甚だ心許ないなんて回りくどい言い方をせずとも、まったくダメダメなのは、誰が見ててもわかる話で。防衛の話とか経済の話は立場によって感じ方もいろいろだから措いておくとして、僕はとくに民主主義の根幹に関わる問題を指摘したい。

数年前の検察庁法案、日本学術会議の任命拒否、瀕死の大学自治にとどめを刺す国立大学法人法改悪などなど、上げればキリがない。民主主義を破壊するこういった反動的な法案や決定に、公明党が声を上げるでもなく粛々と賛成している姿は、本当にみっともないし、情けないし、恥ずかしい限りだ。

そして、そういう公明党の姿に、おかしいじゃないか、と声を上げることもしない、おかしいと気づきもしない創価学会の面々を見ていても、日蓮大聖人、三代会長の嘆きはいかばかりかと感じるわけで。

「オレは組織人だから」と嘯く人もいるけど、組織人である前に、ひとりの人間として、どうなのよ、と真顔で問い糾したい気分。

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