さっきもちらっとfbに書いたけど、ここにもういっぺん書くね。
今日、父の墓参りに行き、公明党で東金市議に当選した実の姉に会ったんだけど、話を聞いたら、やっぱり創価学会の千葉の最高幹部が、「オグラの姉らしいけど大丈夫なのか?」とかって警戒してたそうだ。
笑える…。
墓についてすぐに、弟が「おにいちゃん、死んだら好きにしてくれって言ってたけど、ホントにどうでもいいの?」って尋ねてくるので、どうでもいいよ。そもそも墓って死んだ本人よりも残された人たちの満足にかかわるもんじゃん?っていったら、妹が「そんなことないでしょ」っていうので、いや、そうなんだよ、と答えた。伝わるといいけど。
あたしは量子もつれの件と、毎日アタマのおかしいイスラエルの空爆によって殺されるガザの子どもたちのことばかりを考えているので、自分が死んだ後、どのように立派に埋葬されるか、なんて本当にどうでもいい。それこそ船橋沖あたりに捨ててくれても全然OK。
ここだけの話、あたしは墓ってもんの存在理由すら疑ってる。むかし、そんなところには眠っていません〜みたいな歌が流行ったけど、あたしは敬虔なる創価学会員として、毎日、自宅の御本尊に向かって勤行唱題を行っているので、いわば毎日、墓参りに行ってるのと同じだと思ってる。わざわざ物理的なカタチで墓に参る、というのは、まあ、象徴というか、記号だよね。記号。中学生や高校生が制服を着るのと似てるかもね。あたしは制服なんか要らないと思っている。
さっき量子もつれの話を書いたけど、宇宙の果てと果ての量子が、片一方がなにか振る舞うと、もう片方はそれに対応して振る舞いを決める、という話。NHK+でみて死ぬほど感動したんだけど、あれをみて仏法者のあたしが思ったのは、
要するに宇宙に距離なんてないんだ、ということ。もちろん物体がある以上、必然的に物理的な空間が必要になるのはやむを得ないことだと思うけど、本質的には宇宙には、この世には距離なんてない。すべてのもの、量子、物体、存在が、すぐ隣にある。たとえていえば、多面体の頂点が相互に対角線で結ばれているように。
よく創価学会の世界で、お題目は地球の裏側まで届く、宇宙の果てまで届く、ってよくいわれるけど、ああ、そういうことなのね、と思うよね。ホントは距離はないんです。すべてはすぐ隣にあるんです。
そう考えないと、量子もつれの問題って解決しないもんな。常識からするとびっくりするような結論だけど、あたしのなかでは特別、驚きはない、かな。まあそうだよね、って感じ。
父の墓参りに、弟の娘がきてて。みんなでメシを食ったあと、姉がお年玉?を渡してて。ケチで吝嗇で有名なあたしも、さすがにやばい、と思って財布から千円札を何枚か出して、持たせた。自慢ではないが、こういう常識的な親戚づきあいみたいなのが、あたしは大の苦手なのだ。まあ、あたしが大成功して、チョー金持ちになったら、いままでの不義理を詫びようとは思うけど、まあ期待しないで待っててくれよん。
そんなところでしょうか。
なぜこれを螢雑想でもなく、船橋創価新聞でもなく、船橋政治新聞に書こうと思ったかは、謎。笑