統一地方選のさなか、ひとりアレキサンダーを憶う

昨日早く寝たので、今朝は早く起きた。笑

twitterに公明党の悪口を書いてたら、前から書こうと思って忘れてたことを思い出した。

創価学会は、というか創価学会員はみんな、といったほうがいいかな、みんな、というのはやや語弊があるよね、そうじゃない人もいるから。

ほとんどの創価学会員は、「発心動機」を失っている。自分で信心を始めた、いわゆる一世についていうと「入信動機」ってことになるかな。まあ、創価学会に入信(入会)した人は動機があったから入会したんだろうけど、まだ創価学会に入会していない、いわゆる未入信(未入会)の方々が、創価学会の指し示す理想(?)について、それほど魅力的に思えてないんじゃないかなぁ、ということは、ふつうにずっと生活して、友人と対話したり、飲みに行ったりして、つねづね感じることで。

まあ、ふつうにあたしの祈りが足りないんだろうけど。笑

それはそれとして。

同じことを何度も書くけど、田原総一朗は、毎日新聞出版から出した、創価学会の半公認書籍である、タイトルもズバリ『創価学会』という書籍を出したあと、聖教新聞の紙面1面を使って取材に応じており。その最後に、こんなことを言ってる。

創価学会は新しい言葉を必要としている。
いつまでも「貧乏人と病人の集まりじゃないでしょ」
と。

田原総一朗の融通無碍というか変幻自在な物言いには、いつも困惑させられるが、でも、この一言は本当にその通りだと思われ。そしていまだに、その答えはない。笑

僕が熱心な創価学会の活動家として、末端の、最前線の幹部として、ずっと感じてる(た)ことは、なかなかこの信心の必要性って、相手に刺さらないよね、ってことで。同じことを数限りなく繰り返して申し訳ないけど、ひとえにあたしの祈りの至らなさだと思うんだけど、もうすこしだけ中央の、未活動家を激励するときは、こうやってアレするんですよ、という指針みたいなものが発令されててもいいんじゃないかなと思ったりもする。事実上、創価学会は各種選挙に明け暮れてて、選挙というのは公明党支援なワケで、これは創価学会の思想に賛同する人たちが我も我もと戦いに糾合されていくものであり、そもそも創価学会の活動も思想も、なんですかそれ、あたし名前だけなんですけど、という方々にはどうやっても刺さらない。もちろん、創価学会が支援する公明党が、どこに出しても恥ずかしくない、すばらしい政策を掲げて、時の政治権力、国家権力、政権与党と全面対決するのなら、話の持って生き方としてもラクなんだけど、残念ながら、いまはそうではなく。

こんなことを書いたら公明党の熱心な信者にdisられちゃうけど、公明党の掲げてる政策って、どれもこれも、落ち穂拾いみたいだよね。強大な永遠の政権与党、The 自民党がどーんと屹立してて、公明党はその周りをちょろちょろ回る衛星政党、衛星与党みたいな。笑

なんの話だっけ。あたしは常に話が長くなっていけない。そう、公明党がそうなってるのは故なきことではない。簡単に言っちゃうと、これもあちこちで何度も書いてるけど、公明党を支援する創価学会の方々が、それなりに裕福になり、病気の方々も、それなりに医療制度とか医療保険制度とかが充実して、むかしほど困っている人がいなくなった、少なくなった、という事情があるんだと思う。

あるんだと思う、というか、ある。僕がよく知ってる身近な創価学会の活動家の方々でも、それなりに生活に困ってない、というか、けっこう裕福な人たちって、いっぱいいるわけで。

ちなみに僕は、あえて永遠の貧乏人を自負してるけどね。

それはそれとして。じゃあ、昭和30年代、40年代に、“貧乏人と病人の集まり”だった創価学会は、裕福になり、健康にもなって、そのあとどこへ向かうのか。これが何よりの問題だと思われ。

そのことについて、明確にご指導をくださった、原田稔創価学会現会長のご指導というのを、僕は寡聞にして、知らない。聖教新聞に取り上げられるのも、つねに、個人とか、その組織とかに依ってて。

「マニュアル」っていい意味でも悪い意味でも使うと思うんだけど、でも大衆を大きな戦いに糾合して行くには、戦いのマニュアル化って絶対に必要だと思われ。僕に言わせれば、ハッキリ言って、創価学会の戦い、活動方針は、チョー古いマニュアルを、いつになっても更新せずに、使い続けてるところなんだよ。そこが大問題。

今朝、岡本三成をdisりながら、前からずっと考えてた、学会員は裕福になり、健康になって、戦いの羅針盤を見失ってる、という話をぼんやりと考えながら、風呂場でシャワーヘッドで尻を洗いながら、思い出した。

そういえば、先生は、アレキサンダーの話を書いてたな。『法華経の智慧』か『新・人間革命』だったはずだ、と思って検索したら、『新・人間革命』第6巻、遠征の章でした。

以下、少し長くなるけど、引用しますね。創価学会、聖教新聞の方々、これはひとりでも多くのメンバーに池田先生の思想を少しでも正しく伝えたいと思うあまりの行動なので、スラップ訴訟とか、起こさないでくださいね。笑

以下、引用。(引用中の太字は船橋政治新聞による)
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遠路(33)
 二月十一日の戸田城聖の誕生日の朝を、山本伸一はパキスタンで迎えた。
 この日は、タイのバンコクに向かう日であった。飛行機の出発は正午であり、時間があったので、川喜多正男が、一行をクリフトン・ビーチという海岸に案内してくれた。そこは市民の憩いの場所となっていた。
 伸一は、同行のメンバーとともに、海岸に設けられた長いテラスに立った。眼前には、紺青のアラビア海が広がっている。
 アラビア海は、古代から人びとの交流の大舞台であり、海の道であった。
 伸一は、ふと、あのアレキサンダー(アレクサンドロス)大王の東方遠征が、西北インド、つまり現在のパキスタンまで至っていたことを思い出した。
 彼は、同行の青年たちに言った。
 「確かアレキサンダー大王も、パキスタンまで来ていたね。また、大王が遠征から帰還する時、このアラビア海を見たはずだよ」
 秋月英介が答えた。
 「そうですか。すると、今回、先生が回られたところは、すべて、アレキサンダーのゆかりの地でもあったわけですね。彼は、イラン、イラク、トルコ、ギリシャ、そして、エジプトにも行っていますから。
 二千年以上も昔に、バルカン半島にあったマケドニアから、こんなところまで遠征して、戦いに勝利を収めていったのですから、大変な壮挙ですね」
 アレキサンダーは、紀元前三五六年にマケドニアの王子として生まれた。
 彼の少年期に、プラトンの弟子のアリストテレスが家庭教師をしていたことはよく知られている。
 前三三六年、彼は二十歳で王位につくと、二年後、東方の大帝国ペルシャに戦いを挑んだ。
 この遠征に旅立つ際に、アレキサンダーが、自分の財産を惜しげもなく臣下に与え、″我に残すは希望のみ″と叫んだことは有名な逸話である。
 アレキサンダーは、ペルシャ王との最初の会戦に勝利すると、次いでペルシャの支配下にあったエジプトを解放。そして、再び、ペルシャとの大激戦の末、この老大国を倒した。
 だが、彼の遠征は休むことを知らず、中央アジアを東へ進んで、インダス川を渡り、未知の国インドに足を踏み入れたのである。
 故国のマケドニアを出発し、遙かな東方をめざして八年。しかし、世界の果てまで突き進むかのような彼の前進は、突然、そこで止まっている。
 そして、インダス川を下り、アラビア海を望むと、再び、懐かしい西方世界への帰路を急いだのである。

遠路(34)
 山本伸一は、青年たちに問いかけた。
 「アレキサンダー大王は、遠征の末にインダス川を渡った。その先は、ガンジス川が潤すインドの大平原だ。ところが、そこで突然、引き揚げてしまった。
 なぜだと思う?」
 皆、黙って考え込んでいたが、誰からも答えは返ってこなかった。
 伸一は語り始めた。
 「アレキサンダーは、常に先陣を切って、前進、また前進で突き進み、いかなる困難も乗り越え、常勝の道を切り開いて来た。
 インダスを渡った時も、新天地への希望に、胸を高鳴らせていたに違いない。
 その彼が、ここで遠征をやめ、引き返さざるを得なかったのは、外敵や障害のせいではない。味方の将兵たちが、前進することを拒絶したからである。
 アレキサンダーは、将兵たちの心が、次第に冷めてきていることを知悉していた。だから、士気を鼓舞しようと、決起を呼びかけ、不屈の前進を訴えた。
 だが、彼らは、大王の意に反して、それ以上、動こうとしなかった。
 アレキサンダーは″何を恐れているのか、臆病者どもよ″と、歯ぎしりする思いだったはずだ。
 結局、懸命の説得も空しく、彼は前進をあきらめるしかなかったのだ」
 今度は、黒木昭が伸一に尋ねた。
 「将兵たちは、アレキサンダー大王と苦楽をともにして戦ってきた闘士のはずですが、それがなぜ、大王と一緒に進もうとしなくなったのでしょうか」
 「これは、極めて大事な問題だね。
 故国を遠く離れて、八年にもわたる遠征で、将兵の胸に、望郷の念がつのり始めていたこともあったのだろう。また、心身ともに、連戦に疲れ果ててしまっていたのかもしれない。
 しかし、私は、むしろ、大王が何をめざして戦っているのか、将兵がわからなかったことに、最大の要因があったように思う。
 彼の遠征の動機には、自国の安全を守るとともに、支配を拡大し、経済的にも豊かなものにしようという狙いがあったことは間違いない。しかし、アレキサンダーは、もっと大きな理想をいだくようになる。
 もし、金銀財宝が目当てなら、ペルシャ帝国を滅ぼした時点で、莫大な財宝をわが物にし、遠征をやめていたはずだ。また、自国の領土の安全を確保するためなら、やはり、その段階で目的は達せられていた。
 ところが、彼は、遠征をやめなかった。ちっぽけな欲望や利権には見向きもせずに、遠征の先頭に立ち続けている。
 なぜか。彼は世界の西と東を結び、人類を統一するという理想の実現のために戦おうとしていたからだ

遠路(35)
 アレキサンダー大王は、エジプトで″人類は一つである″との啓示を得たといわれる。以来、彼は、その実現を、自身の使命としていった。
 もちろん、彼も武力による征服を行いはしたが、東方の異民族を低く見たり、差別する発想はほとんどない。敵として戦っても、ひとたび相手が帰服すれば、手厚く遇し、敵の貴族などを領主にすることさえ少なくなかった。
 そして、アレキサンダーの方が、異民族の文化や風俗などを、積極的に受け入れていった。
 それが新たな文化の創造の基盤となり、後にパキスタン北部に開花したガンダーラ美術のように、仏教というインドの文明と、ギリシャの文明との融合をも、もたらしたといってよい。
 当時は、あのアリストテレスでさえも、ギリシャ人以外は、生まれながらの野蛮人という認識があったくらいである。
 そのなかで、人は皆、同じ人間であると考え、世界を結ぼうとするアレキサンダーの理想を理解できる将兵など、誰もいなかった。
 将兵たちにとっては、遠征は、マケドニアの支配を拡大し、自分たちが富を得るためのものであった。
 そのため、ペルシャ征服後の遠征に従った者は、次第に、これ以上、苦労し、危険を冒す必要などないではないかと、考えるようになったのであろう。
 山本伸一は言った。
 「大王と将兵たちの間には、遠征の目的に大きな違いがあった。
 アレキサンダーは、崇高な理想の実現のために、はるかなる遠路をめざしたが、将兵たちの心は保身にあったようだ。保身は人間を臆病にする。そして、ひとたび臆病になれば、戦いには勝てない。
 信心の世界でも同じことがいえる。戸田先生の時代も、懸命に学会活動に励み、病苦や経済苦を克服してしまうと、活動に力が入らなくなる幹部がいた。
 もう功徳も受け、悩みも解決できたのだから、あくせく信心に励む必要はないというわけだ。
 そして、どこまでも広宣流布に生き抜こうとする戸田先生を批判する者さえいた。『なぜ、そこまで弘教しなければならないのか』『もっと、休みながら、ゆとりのある活動をすればよいではないか』――そんな批判を、私は何度となく耳にしてきた。
 先生の念願は、この地上から″悲惨″の二字をなくし、全人類を救済することであった。世界の永遠の平和を築くことにあった。
 しかし、悲しいかな、彼らは、その心が、本当にわかってはいなかったのだ

遠路(36)
 浜辺に打ち寄せる波が、太陽の光を浴びて、まばゆく光っていた。
 皆、緊張した顔で、山本伸一の話を聞いていた。
 「戸田先生の心を知り、本気になって、その理想を実現しようとしてきたのは私だけであったと確信している。私の思いは今も、いささかも変わっていない。
 私は、戸田先生から、人類の幸福と平和の実現という、広宣流布のいっさいを託された。それは、はるかなる遠路だ。また、終わりのない旅である。命ある限り、歩み続けなければならない間断なき闘争である。
 自分の安泰だけを願う保身の心では、広宣流布の遠路を踏破することなど絶対にできるものではない。
 みんなが悩みを克服し、健康になり、生活が豊かになる。豪邸にも住めるようになり、社会的にも立派な地位や名声を得ていく――それは、私の願いであるし、功徳といえば功徳だが、極めてちっぽけな功徳です。信心の目的の一つにすぎない。
 それだけでは、相対的な幸福であるし、自分だけの幸福に終わってしまう。そして、そこに安住するならば、アレキサンダー大王の将兵たちのように、更に前進しようとする気概を失ってしまうだろう。
 私たちが最終的にめざすものは、個人に即していえば絶対的幸福だ。どんな逆境に立とうが、崩れることのない、生命の大宮殿を自身の胸中に築き上げていくことです。また、自他ともの幸福であり、広宣流布こそが本当の目的だ。
 私たちは、それを成し遂げる使命をもって、この世に生まれてきた。そして、その使命に生き抜くなかに最高の歓喜が、最大の充実が、絶対的幸福がある。
 ところが、人間は、環境が整い、年をとるにつれて、次第に保身に陥り、臆病になってしまう。若い時や一時期は、必死になって頑張ることができても、生涯、それを持続し、貫いていく人は少ないものだ。
 しかし、それでは、自分自身の完成もなければ、人類の幸福と平和の実現もあり得ない。それまでの努力も水の泡となってしまう。だから、私は、最後まで広布に走り抜こうと、厳しく言うのです。
 ともあれ、アレキサンダーの将兵たちの心は、大王と同じではなくなっていた。そこに、アレキサンダーの限界の壁もあった。
 つまり、どんなに偉大な指導者がいても、皆がその本当の心を知り、力を合わせなければ、偉業の成功はない。真の同志とは、また弟子とは、同じ″志″を、生涯、もち続ける人だ」

遠路(37)
 山本伸一は、目を細め、アラビア海を眺めながら、恩師の戸田城聖を思った。
 ″戸田先生がご存命であれば、今日で六十二歳になられたことになる。
 もし、ご一緒に、ここに立つことができたならば、先生はなんと言われたであろうか……。
 先生は、世界の民衆の、なかでもアジアの民衆の幸福を、念願し続けておられた。しかし、日本を出ることはなく、五十八歳の生涯を閉じられた。
 その先生に代わって、いや、先生の分身として、私は世界に羽ばたいた……″
 伸一は、戸田の念願を成就することが、弟子としての自分の生涯の使命であることを痛感していた。
 しかし、それがいかに重く大きな課題であり、はるかなる遠路であるかも、いやというほど感じていた。
 世界に会員がいる国も、まだ、ほんの一握りにすぎないし、いたとしても、微々たる存在でしかない。しかも、それぞれ国情は異なっており、入国さえできない国もあれば、信教の自由が保障されていない国も少なくない。
 そのなかで、仏法を基調にした平和の哲理とヒューマニズムの思想を人びとの心のなかに植え、世界を結ぶことは、砂漠の砂を一粒一粒拾い上げるに等しい、迂遠な作業といえよう。
 伸一は、時として、気の遠くなるような思いをいだくこともあった。焦りを感じもした。
 しかし、そんな時には、彼は、いつも、敗戦の焼け野原に一人立った恩師が、七十五万世帯の友の幸福の城を築き、自身の生涯の使命を果たしたことを思い起こした。
 すると、彼の胸には、暗雲を破って太陽が昇るかのように、常に勇気と力が込み上げてくるのだった。
 ″その先生の弟子である私も、使命を果たせぬわけがない″
 勇気は希望となり、大いなる確信となっていった。
 そして、いつも、心でこう叫んだ。
 ″先生、見ていてください!″
 伸一は、恩師を思い、勇気を奮い起こしながら、遠路を黙々と進んでいった。
 今日、世界に広がったSGI(創価学会インタナショナル)の、民衆の平和の大潮流も、また、各国各界のリーダーたちとの間に築いた、幾多の対話と友情と信頼の橋も、その原動力となったものは、彼の師弟の誓いであった。
 この時も、一年前に初めて訪問し、地区を結成したタイと香港に、いよいよ支部が結成されようとしていたのである。

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引用、終わり。

僕は池田先生のご指導どおり、金満野郎にはならない。なぜか。おなかに力が入らなくなるから。

ここまで書いて、ようやく気がついた。岡本三成が本当に池田先生の弟子なら、創価学会や創価大学、アメリカ創価大学に、たぶんいっぱい寄付をしてると思う。自分の生活が困らない程度に。

岡本さん、さんざん誤解して、さんざんdisっちゃってごめんなさいね。

いつかゆっくり語り合いたいなあ。ま、来世でもいいけど。

というか、過去世でさんざん、死ぬほど語り合ってきたんだよね。うっすら覚えてるよ。笑

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