【さらに大幅更新】映画「みんなの学校」見るべし!

少し前のことになるけど、ずっと前から見たかった映画『みんなの学校』をついに見ることができた。

2023年1月21日、土曜日。場所は世田谷区の成城学園前駅のそばの成城ホール。
行ってみたら、砧総合支所の一階にあるのね。

映画「みんなの学校」は、大阪・住吉区にある大空小学校が舞台で。この大空小学校の初代校長を務めた木村泰子先生が、聖教新聞に何度か登場されてて、以前、その記事をワクワクしながら読んだ。

自分でも書いたことをほとんど忘れてたんだけど、いまブログをさがしたら、あったよ。ちょうど一年前、この船橋政治新聞に書いてた。

いや、自分でもバカみたいだけど、われながらビックリ。まだ映画「みんなの学校」を見てないのに、木村先生の創価学園での講演をまとめた記事を読んだだけで、みんなの学校(大空小学校)のことを的確にとらえてる気がする。まぢヤバくね?笑

大空小学校は普通の公立小学校でありながら、なんだか全然ふつうの小学校とは違う。

とにかく、いい意味で規格外れなのよ。規格外れとか聞くと、僕なんかはワクワクしちゃうのだが。

いちばんわかりやすくいえば、公立小学校には「特別支援学級」というのがあるんだけど、大空小学校では、ふつうの小学校だと特別支援学級に行くような子でも、ふつうの学級でみんなと同じように学んでる。それがすごい。それが革命的。もちろん、言葉でいうほど簡単なことではなく。

予告編の画像を貼っておくので、見てほしいゎ。

予告編を見てるだけでも、泣けてくる。

見終わった直後、別に聞き耳を立ててたわけじゃないけど、まわりの女性たちが口々に感想を述べ合ってる。「でも先生はたいへんだよねぇ」 「他の子たちの授業は大丈夫なのかな」 という感想が、世田谷っぽいなと思った…。笑

きょう(2023年1月27日)、2回目を見てきた。川崎市の武蔵小杉駅前にある中原市民館 2F大ホールで。またも号泣。映画の中で、木村校長先生が、いまの日本にいちばん欠けていること…みたいなことをおっしゃるのだが、ホントにそうや!と心の底から共感。ちらっと維新批判みたいなことも、おっしゃってたな。

先日の1回目と比べて、無意識のうちに、大人の動きに注目して見てた。 最後のナレーションに、みんなで学び合う、ってあったけど、そうなんやな。 普通の学校は、大人が、先生が、一方的に子どもに指導するって感じやけど、ここは違う。

キレイゴトじゃなく、大人も子どももそれぞれが相手から学び合う。これでいいなんてない。完成なんてウソだ。 なんであたしがこの映画「みんなの学校」にハマってるかっつーと、あたしがセイちゃんとか、映画に出てくる男の子たちに自分を投影してるからや。たぶんそれは真鍋俊永監督も一緒やと思う。

だってめちゃめちゃ楽しそうやもん。画面から、カメラマンがめっちゃ楽しんで映像を撮ってるのが伝わってくるもん。それは、よっしゃ、いい絵が撮れたわ、しめしめ、っていう職業的なアレもあると思うけど、それ以上に、いまの時代に欠けている大切なモノをどうしてもこの社会に伝えたいという…。

アホみたいな言葉をあえて使うとすると、使命感やな。別に使命感って言葉を使うかどうかはどうでもいいと思うんだけど、でもいま自分が生きてて、いま自分がやるべきことってことを考えると、どうしてもそうなるよね。 次は2/5日曜日、横浜かな…。真鍋俊永監督がトークショーに来てくれるという。行かないわけには、いかないでしょ。もしできたら、親友のマキを連れて行きたい。何時からだっけ。

こういう感想がいいか悪いかわからんけど、子どもの頃、本当に恵まれない環境で育ち、大人になってからとんでもない犯罪を犯してしまった人たちが、子どもの頃、大空小学校で学ぶことができてたら、もしかしたら犯罪を犯さずにすんだかもしれないのになあ、って思った。

あと、男の子たちのお母さんが登場されるんだけど、やっぱりホント、お母さんって偉大だよな。子どものために引っ越してまで、大空小学校に行かせようとしてくれてるんだから。泣けるよ。母ちゃん。まああたしみたいな親不孝者はいないわけだが。母ちゃんが生きてるうちに会いに行かなきゃなあ。

優れた映画を見たあとの楽しみは、誰かの感想を読むこと。ああ、そうだよねぇ、と心から共感することもあれば、ええ、そんなふうに思うんや、と心からびっくりすることもある。この「みんなの学校」はそれが両極端かな。でも、拒否反応を示してる人たちの言ってることも、わからないではないんだ。ツイートでもつぶやいたけど、子どもを学校に通わせる親としては、自分の子どもの学業は大丈夫なんだろうか、とか、あと学校の先生の立場に立ってみれば、どんだけ仕事が増えるんや、とか。実際、自分はもっと“デキる子”の相手をしたい、みたいな本音を書いてる学校の先生とおぼしき人もいたし。

ググってたら、こんな記事ツイートを見つけた!
めちゃめちゃ泣ける。 やっぱり映画「みんなの学校」は、あの映画が単独で完結するモノではない。こういう周辺?の話がいっぱい寄り集まって、本当の姿を見せてくれるんや。

あと、晒すつもりはないけど、代表的な?否定的意見には、こういうのがある。

この人がいうのも、よくわかるんだよなあ。ていうか、こういう意見のほうが一般的、なのかもしれない。というか、一般的なんだろう。そもそも、小学校って、何を学ぶところなんだろう、っていうところから、あらためて話し合いを始めないといけないかもしれないね。

そういえば、映画の中でも、中学校は、特別支援学級に行かせます、というお母さんが出てくる。勉強も難しくなるし、普通学級だと放置される可能性があるから、って。これもひとつの現実なんだよな。

このへんでtwitterの過去のツイートをコピペして置いておきますね。

なんと、「みんなの学校」の真鍋俊永監督から、レスをいただいた!

真鍋さんはずっと前からフォローしてた。「みんなの学校」の監督だと知る前から。

どうしてフィーチャーされる子どもは男の子ばっかりなんだろう、というあたしの疑問に対して、「みんなの学校」の監督の真鍋俊永さんが、レスをくださった。

いやー、うれしかったなあ。

女の子の親のほうが、将来が心配だよね。こんな訳もわからないテレビ番組とか映画とかで主人公に祭り上げられちゃって、この子の将来に永遠にキズがついたら、あたしは責任取れないわ、って感じなのかな。

まあそれは杞憂だったと思うけどね。

けど、さっきも母は偉大だ、って書いたけど、どれだけ関西テレビの真鍋俊永さんをはじめとしたスタッフの方々が、この映画で中心的に描かれるセイシロウくん、カズキくん、マサキくん、ユヅキくんなどのお母さんたちを心を込めて説得したか、その大変さ、困難さはわからないけど、でもきっと逡巡もあっただろうけど、最終的に快くOKを出してくださったお母さんたちに、心の底からお礼を言いたい。お母さんたちのその決断が、この奇跡のような映画を完成させ、日本全国でどれだけ多くの教育関係者、または広い意味で教育に携わる方々に、この映画を見ることによって深くて厚い希望そして活力をもたらしたことか。

そうね、一言でこの映画を語るとすると、人間の可能性を舐めるな、ってとこかな。

どこまでも自分の目の前にいる人の可能性を信じろ、ってことだと思う。

その点、僕にも大きな反省がある。かつて、ある団体で、自分の後輩の面倒を見ることがあり。けど、その頃の僕は、映画に出てくる座親先生よりも未熟で。自分の基準で彼らをエラそうに断罪し、どこまでも彼らを傷つけていた。そのことを思い出すたびに、本当に申し訳なかったと心の底から思う。いまはもう、どうすることもできないけど。

監督を務めた真鍋俊永さん、いまは本人の希望に反して報道取材現場から離れてるみたいだけど、何があったんだろうと思った。あの映画をよく思わない人たちもテレビ局の内外にいたんだろうな、というのは想像に難くない。

あと、初代校長の木村先生があまりにも偉大だから、2代目の校長先生はたいへんだろうなあ、とか。
これはどうも余計な心配だったようだ。映画の中ではあんまり目立ってなかったけど、木村校長のもとで教頭を務めてた男性の先生が2代目の校長先生を務めたという。

けど、小学校を1年間にわたって取り続ける、追い続けるって生半可なことじゃ、できないと思う。だってドラマはいつ生まれるかわからないし。あるていど予測はできたとしても。あたしの記憶に間違いがないとしたら、エンドロールの「撮影協力」にずいぶんたくさんの名前が並んでたけど、あれは関西テレビのカメラマンなのだろうか。それとも保護者とか地域住民とか? 基本、人海戦術で作り上げた映画だと思うので、経費もめっちゃかかってると思われ。もしかしたら赤字だったりして。それがいまだにアマプラとかに下りてこない理由なのかなと邪推してみたり。

「みんなの学校」上映会、無料上映の場合、一日6万円でできる。初代校長の木村先生を何度も聖教紙面で紹介してるんだから創価学会の女性部で上映会をすればいいのに。ひとり2千円出せば30人集まれば6万円になるやん。見たほうがええと思うねんけどな。いや、まぢで。学会本部が上映会を推進してもいい。聖教新聞でどんなに木村先生のお話を聞いても(読んでも)、やっぱり映画を見ないと大空小学校の本当はわからない。もちろん、記事を読んで、映画を見れば、より理解は深まると思うけど。

こんなにうしろのほうに大事な話を書くけど、映画「みんなの学校」を見ててすぐに気がつくのは、木村先生は、ホントにこれだけは、ってこと以外は大人はジャッジしない。大人のジャッジを子どもに押しつけない。どこまでもその子に自分のアタマで考えさせようとする。それも、目の前の子どものことをしっかりと熟知してて、その子の状況にいちばんあったカタチで“挑戦状”をたたきつける。子どもたちは、たぶん、どこかでウザいと思いながらも、でも木村先生からの挑戦状にまんまと乗ってしまう。ホントのところ、子どもたちにとってもそれがものすごく心地いいんだと思う。

学力診断テストの場面が出てくる。特別支援の対象の子どもたちは、彼らひとりひとりに合ったお手製の“学力診断テスト”にチャレンジしてる。そのシーンのあたりに、水泳に喩えた話を木村先生はしてくれてて。100m泳げる子と、1mも泳げない子がいて…って。

映画の中ではハッキリと言葉にはされてないように思うんだけど、「見える学力」「見えない学力」という言い方を木村先生はされてた。たぶん、映画を見た保護者から、あんなしてて、本業である勉強のほうは大丈夫なんやろか、みたいな声が上がってきたのだろう。でも木村先生は明言してる。「見えない学力」をしっかりと育めば、「見える学力」のほうも自然に伸びていきます、って。

すごくわかるんだよな。人間として、いいこと、悪いこと。自分がされて嫌なことは人にはしない。言わない。その逆をとれば、自分がされてうれしいことを積極的に人にしていきなさいと。

最近、ものすごく長い映画を見ることが多いので、106分は、いかにも短い。できれば、真鍋俊永監督には、3時間くらいのディレクターズカットを制作してほしかったな。そうだなぁ、脇役として出てた、他のみんながもっと登場するような。

そか、劇場公開とか、いまみたいな上映会とかだと、会場の都合があるから、常識的に2時間とかにまとめるのが常識的なのかもしれないね。でも来るべきアマプラとかに降りてくるときになったら、2時間でも3時間でも、まあぶっちゃけそんなに変わらないわけで、アレですよね。

そうだ。前から気になってたんだけど、編集協力:秦岳志、ってあったんだけど、もしかして、って思った。この秦岳志さんって、もしかして「水俣曼荼羅」の編集をされた方では? 去年の8月に水俣曼荼羅の水俣での上映会と翌日の現地ツアーに参加したとき、映画の舞台にほど近い貝汁屋さんで、いっしょにメシを食いましたよ! 何を食ったんだっけ。忘れた。笑

そういえば、今朝だったかな、原一男監督が、こんなツイートをしてた。
それに対するあたしのリプといっしょに、ご紹介。

別のツイートに書いたけど、あたしは最近、ドキュメンタリー映画とか、事実を元にした映画ばっかり見てる気がする。別に劇映画がダメだとは思わないけど、いまのあたしのモチベーション的に、あんまり作り物を見て楽しみたいとは思わないんだよね。そのくらいの危機感は持ってる。

今日僕はやらなければいけない画像整理を放擲して一日中、寝てたんだけど、今朝方の一連のツイートは自分でもよく書けたと思ってる。いまはちょっと思い出せないけど。

前から、心ある民放テレビの人たちが、自分たちが作ったテレビ番組を「映画」として再構築して世に問う、ということが数限りなく起こってるけど、これってどういう意味があるのだろうとずっと考えてる。ぶっちゃけ興行収入はどう山分けしてるのかな、とか。笑

まあ、ゲスの勘ぐりはこれくらいにしておいて、彼らが自分たちの作った、というか、手に入れた、情報、というと軽いかな、自分たちが発見した、この世をよくするよすが?みたいなモノを、いっぺんか何遍か電波に乗せてオンエアーして満足するなんて、誰も思わないわけで。やはり、映画という半永久的な媒体に一次変換して、ひとりでも多くの人に見てもらい、その感想を尋ねたいと思うのは、当然のことなのではないかと僕なんかは思ったりもするわけで。

前から薄々感じてたんだけど、あたしがその場の思いつきでガンガン、ツイートしてるようなことを、まとめてブログに認めてるのって、民放のディレクターとか記者とかが、自分たちがテレビ番組にまとめた作品を、映画にして改めて世に問うのとすごく似てるなと思うわけですよ。

まあ、あたしのブログはどうでもいいけど、テレビ番組って、消えていっちゃう存在じゃん?

けど、映画ってなると、半永久的に世の中に残る可能性がある。金儲けはだんだんできなくなるだろうけど、そんなことじゃないんだよ。

オレは真実へと歩いてるかい

と虚空に叫んだ尾崎豊の言葉が耳から離れない。

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